特別展「三国志」Webレポート☆魏・蜀・呉をリアルに体感
- 1. 第4章 三国歴訪
- 1.1. 4-1 三国歴訪 – 魏
- 1.1.1. 070 「関内侯印(かんだいこういん)」金印
- 1.1.2. 071 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印
- 1.1.3. 072 定規
- 1.1.4. 073 五龍硯(ごりゅうげん)
- 1.1.5. 074 墨書紙(ぼくしょし)
- 1.1.6. 075 獣文鏡(じゅうもんきょう)
- 1.1.7. 076 六博盤(りくはくばん)
- 1.1.8. 077 厠圏(そくけん)
- 1.1.9. 078 方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)
- 1.1.10. 079 鼎(てい)・ 080 鐎(しょう)
- 1.1.11. 081 把手付容器(とってつきようき)
- 1.1.12. 082 炉(ろ)
- 1.1.13. 083 盒(ごう)
- 1.1.14. 084 刀魚文俎(とうぎょぶんそ)
- 1.1.15. 085 井戸
- 1.1.16. 086 毋丘倹紀功碑(ぶきゅうけんきこうひ)
- 1.1.17. 087 北園1号墓壁画模写
車馬行列図、騎馬行列図、楼閣図
- 1.2. 4-2 三国歴訪 – 蜀
- 1.3. 4-3 三国歴訪 – 呉
- 1.3.1. 102 竹簡(ちくかん)
- 1.3.2. 103 「童子史綽(どうじししゃく)」名刺
- 1.3.3. 104 化粧盤
- 1.3.4. 105 俑
- 1.3.5. 107 釜(ふ)
- 1.3.6. 108 画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)
- 1.3.7. 109 同向式神獣鏡(どうこうしきしんじゅうきょう)
- 1.3.8. 110 「嘉禾五年(かかごねん)」重列式神獣鏡(じゅうれつしきしんじゅうきょう)
- 1.3.9. 111 仏像夔鳳鏡(ぶつぞうきほうきょう)
- 1.3.10. 112 扁壺(へんこ)
- 1.3.11. 113 羊尊(ようそん)
- 1.3.12. 114 神亭壺(しんていこ)
- 1.3.13. 115 槅(かく)
- 1.3.14. 116 仏坐像
- 1.3.15. 117 盤口壺(ばんこうこ)
- 1.3.16. 118 銅鼓(どうこ)
- 1.3.17. 119 ガラス盤
- 1.3.18. 120・121 ガラス連珠 「孫権を喜ばせた南方からの贈り物」
- 1.3.19. 122 高床倉庫・123 竈 「高温多湿な呉の南部ならではの工夫」
- 1.3.20. 124 五銖銭(ごしゅせん)
- 1.3.21. 125 直百五銖銭(ちょくひゃくごしゅせん)
- 1.3.22. 126 大泉当千銭(だいせんとうせんせん) 「呉の硬貨」
- 1.1. 4-1 三国歴訪 – 魏
第4章 三国歴訪
魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原を押さえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域を割拠した。
異なる風土は、それぞれに独自の思想や習慣を育んだ。
各地で出土する文物にも、三国それぞれの特色が現れている。
4-1 三国歴訪 – 魏
魏が支配したのは項が流域とその北側である。古くから文明が発達し、人口密度も高く、人材に恵まれた。
しかしもともと冷涼乾燥な土地であったうえに、さらに気候が寒冷化し、また戦乱も頻発したため、人口が減少し農業生産もふるわなくなった。
このため曹操は土地を人民に与えて開墾さえる屯田制を始め、食糧増産に成功して三国の戦いを有利に進めた。
魏の地域の出土品からは、魏が漢王朝の文化を引き継ぎ発展させていったさまがうかがえる。
070 「関内侯印(かんだいこういん)」金印
漢・三国時代では関内侯は皇帝、諸侯王、列侯に次ぐ身分で、一定の収入が保証された。
魏では夏侯淵は列侯となりその子が関内侯となった。
071 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印
本作は魏が中国西北地域の氐の指導者に与えた金印である。
072 定規
当時の1尺の物差しで、その10分の1の1寸とそれを2分するする5分ごとの目盛りを正確に刻む。
三国時代の1尺が24cm前後であったことを伝える貴重な資料。
073 五龍硯(ごりゅうげん)
蓋には五頭の龍が浮彫されている。
このように凝った硯は富裕層が使用したものであったろう。
この時代の墨は丸薬のような粒で、水を加え磨り石ですりつぶして墨汁とした。
複雑な装飾をもつ蓋を伴う石の硯(すずり)。
蓋には五頭の龍が浮彫されている。
このように凝った硯は富裕層が使用したものであったろう。
この時代の墨は丸薬のような粒で、水を加え磨り石ですりつぶして墨汁とした。
074 墨書紙(ぼくしょし)
後漢時代の紙の普及と書体の変換を伝える資料として、きわめて貴重である。
075 獣文鏡(じゅうもんきょう)
三国時代の魏の墓から本作のような後漢時代につくられた鏡が出土することが珍しくない。
076 六博盤(りくはくばん)
盤面にコマを置き、サイコロのようなもので数字を決めコマを進めた。実用品は木製であった。
本作は墓に納めるために造った土製品で、つくりはやや粗雑である。
077 厠圏(そくけん)
漢時代から中国ではさまざまな設備や什器を模型にして墓の中に副葬した。
本作と同タイプの厠圏の模型は魏が支配した河南省で多く出土する。
078 方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)
この鏡の文様や銘文には、日本の古墳で出土する鏡と共通する要素があり注目される。
No78の方格規矩鳥文鏡は、銘文は文様に三角縁神獣鏡と通ずるところがある。
No78はどこで作られたか、そしてNo78を作った工人集団が三角縁神獣鏡も作ったのか、学会の熱い視線がこの鏡に向けられている。
ごめんなさい、切れてしまいました
079 鼎(てい)・ 080 鐎(しょう)
鐎は注ぎ口、三脚、長い把手を持ち、酒を温めたり香りづけをしたりする容器。
本来は青銅製であるところを、安価な土器で代用した埋葬用の器である。
081 把手付容器(とってつきようき)
公孫氏政権がが割拠した中国東北の遼寧省遼陽市で集中的にみられる器で、類品は日本列島の日本海側にも。
両者の間に人的な往来があったとみられる。
082 炉(ろ)
金属で作るべき所を、副葬用に素焼きの土器でつくっている。
中国東北部の遼寧省遼陽市一帯に集中する形で、当地に割拠した公孫氏と密接に関わる器物である。
083 盒(ごう)
中から魚骨が見つかる例もあり、料理を入れて副葬する習慣があったようだ。
084 刀魚文俎(とうぎょぶんそ)
当時の知識人であれば「俎・刀・魚」と言えば漢の劉邦の「鴻門の会」を想起したことであろう。
公孫氏の俎 ーモノ語る「鴻門の会」前3世紀、漢の劉邦は楚の項羽と宴席をともにした。しかしそこに劉邦殺害の計が仕組まれていた。これを知った部下の樊 噲(はんかい)は、劉邦が離席したのを見計らい、「項羽ら刀と俎で我々は魚肉。戻れば命はありません」と宴席に戻らぬように促し、劉邦は危機を脱した。その後、劉邦は天下統一の大業をなして前漢王朝を樹立。時が過ぎて3世紀。半独立政権を樹立した公孫氏のもと、魚と刀を組み合わせた俎の模型が数多くつくられた。公孫氏の天下統一の野心の表れであろうか。
085 井戸
おそらくは消防井戸などの公共井戸と考えられ、この模型が副葬されたのは町を監督する立場の有力者の墓であった可能性もある。
086 毋丘倹紀功碑(ぶきゅうけんきこうひ)
魏の将軍の名は毋丘倹(かんきゅうけん)とされてきたが、近年の研究で毋丘倹(ぶきゅうけん)とされる。
087 北園1号墓壁画模写
車馬行列図、騎馬行列図、楼閣図
本図には馬車3両とそれを護衛する騎馬隊が描かれる。
中央の2頭立ての馬車の位が高く、墓の主人が乗った車を表した可能性がある。
中央から右下に青く細長く壁面の剥落と亀裂の痕が描かれ、その左に黒と赤の二段に飾りのついた棒を持った騎馬人物がいる。
魏が倭女王卑弥呼(わのじょおうひみこ)にあたえた黄幢(こうどう)とはこのような形の標識と推定される。
楼閣の左には黒い服を着た二人の人物を、右にはお手玉や剣をもてあそんだり倒立している芸人と見物人を描き、当時の繁栄の様を示している。
4-2 三国歴訪 – 蜀
もともと蜀は中国内陸部にある四川盆地西部の地名であった。
221年に劉備がこの地に建てた国は漢王朝の再興が国是だったので、漢(もしくは季漢(りかん))と号し、前漢・後漢と区別するため、後世に蜀や蜀漢と呼ばれた。
後漢時代から農作物・絹・漆・鉄・塩などの物産が豊かで、「天府(てんぷ)」と謳われた。天険にに囲まれた地勢は敵を防ぎやすく、地域色の濃い文化や信仰が花開いた。
単独の地域ながら、263年に魏に降るまで40年以上も独立を保ったのは、こうした地域の特性と無縁では無い。
088 鎮墓俑(ちんぼよう)
角・牙など動物の要素とともに、毒蛇を操る力まであわせもつ。
蜀の地の後漢墓で出土した。
超能力で邪気や盗賊から墓地を守るため、副葬された
089 舞踏俑(ぶとうよう)
恐らくこれが後漢から三国時代にかけての蜀で流行して踊りの象徴てきなポーズなのだろう。
090 舞踏俑(ぶとうよう)
091 奏琴俑(そうきんよう)
蜀が支配した益州(現四川省、重慶市など)では生動感に富み、柔和な表情の多様な俑がつくられた。
琴を弾く姿の俑も益州に多い。横座りの姿勢で袖をまくり演奏に興じる。
092 説唱俑(せっしょうよう)
曹操の息子・曹植は高い教養と文才の持ち主であるが、説唱の踊りや話芸の真似事も得意だった。
093 女子俑
俎の上には魚のほかに家畜の頭など様々な食材が並ぶ。「天府」と呼ばれた益州の地の豊かな物産が窺える。
094 調理俑
095 犬
黄巾の乱が起きた光和7年(184年)以降につくられた、ある墓の入り口付近に置かれていた。
不穏な世相を反映してか、墓を守る番犬の姿もいかつい。
096 溜池模型
内部を堤でT字形に区画し、その外側に小舟、鴨、蓮、魚などを配する。
同じ墓からは水田模型も出土。溜池と水田は蜀の豪族が経営した荘園の経済的基盤、富の源泉だった。
097 西王母図磚(せいおうぼずせん)
手前で額づく男性はこの磚の墓に埋葬された人物で、西王母に生死を超えた仙人となる昇仙(しょうせん)を請願。
昇仙は究極の幸福と信じられた。蜀は西王母を表した文物に優品が多い。
098 車馬出行図磚(ばしゃしゅっこうずせん)
磚(レンガ)は墓の壁に嵌めこまれていたもの。隣の磚にも馬車が描かれたと推定される。
この長い車列の行き先は西王母の棲む天上世界だったと考えられる。
099 製塩図磚
内陸ながら蜀は古来食塩の産地であり、劉備は塩の専売制を敷いて国庫の重要な財源とした。
100 神木図磚
片方の磚は木のそばに「木蓮」と書いてある。木蓮はおめでたい神木の一種だった。
蜀の地では「揺銭樹」(No.150)など樹木信仰にかかわる文物が多く見つかっている。
101 金馬書刀(きんばしょとう)
三国志の時代には紙が普及しつつあったが木や竹の札も盛んに使用され、書刀は役人の必須の道具であった。
本作は金象嵌で馬の図をあしらった高級品。
4-3 三国歴訪 – 呉
呉はもと長江の下流域一帯を示す地名であった。
後漢の末期、黄巾の乱の平定に功を上げた孫堅は呉の豪族たちと結束して当地に基盤を固め、子の孫策とその弟の孫権がこれを受け継いだ。
呉の影響力は一地方には留まらなかった。高い造船技術と地の利を生かし、東南アジアや南アジアとつながった。
諸国の物産は呉にもたらされ、呉もまた青磁を世に送り出した。
102 竹簡(ちくかん)
湖南省長沙市相馬楼では、三国時代の呉の竹簡が大量に発見された。
当時は紙が普及しつつあったが、役所では竹の札も盛んに使用されていた。
103 「童子史綽(どうじししゃく)」名刺
類例は他の墓でも見つかっており、当時の名刺は大きさや形式が定まっていたことが知られている。
上の写真だとわかりにくいので一つを拡大してみました。
現地の解説と付き合わせると下記のように解釈できるそうです。
104 化粧盤
呉の墓では、もっぱら女性の埋葬に伴うようだ。
105 俑
円錐の帽子をかぶるのは、専門的な技能で主人に仕える者。
冠をつけたのは、主人の職務遂行に関わる者。
髷を結わえて座す人物は調理をしている。
※No.106展示品は非公開
107 釜(ふ)
口縁部と胴部の銘文に、黄武元年に呉の武昌の官営工房で3438番目につくったとある。
建業(現南京)からの遷都直後に当たる当時の武昌では、開発や生産が急務だった。
108 画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)
本作は外周に龍などの画像からなる文様帯をもち、上面が輪のようになった乳(小型の突起)を伴う神獣鏡である。
この形式の鏡は日本でも出土する。
109 同向式神獣鏡(どうこうしきしんじゅうきょう)
銘文で判読できるのは「天下大楽」「日月」などごく一部である。
この時期の呉の鏡には、銘文に読めない文字を多数含む例がある。
110 「嘉禾五年(かかごねん)」重列式神獣鏡(じゅうれつしきしんじゅうきょう)
この鏡は銘文から嘉禾五年の作と分かる。
当時、多数の神々を信仰する宗教が発展していたことが分かる。こうした信仰から道教が発展した。
111 仏像夔鳳鏡(ぶつぞうきほうきょう)
葉のひとつに、光背をもつ仏像が表されている。
中国の初期仏教を研究するうえで貴重な資料のひとつである。
112 扁壺(へんこ)
南京北郊に位置する郭家山一帯は当時の有力者が眠る墓が集まる場所として知られる。
113 羊尊(ようそん)
宗教的な意味と用途があったことが推測される。
紀年資料を伴った墓の出土品であり、堂々たる姿となめらかな草緑色の釉をそなえる点で第一級の資料といえる。
114 神亭壺(しんていこ)
江南の豊かさを裏付けるように、壺上に楼閣や貯蔵用の甕(かめ)、家畜や人物などをびっしり配す。
銘から、かつて孫堅も務めた「長沙太守」に因む(ちなむ)ものであることがわかる。
115 槅(かく)
漆器を祖形とし、それを青磁で忠実に再現している。
呉から晋時代へかけて、青磁は動物の姿をとりいれた呪術的で不思議な器種から、次第に日常生活にも使用できる実用器が量産されるようになる。
116 仏坐像
つまりこの仏像は当初から礼拝対象として制作されていたことをしめしており、仏教美術史上の意義は極めて大きいといえる。
117 盤口壺(ばんこうこ)
宗教的な意味合いを窺わせつつ、異国風の華やかな貼付け文に対外交易で栄えた呉の豊かな文化土壌をみることが出来る。
118 銅鼓(どうこ)
本作のようにカエル、騎馬人物像、鳥の立体装飾を持つ例は、呉の「山越(さんえつ)」と呼ばれた集団と関わりが考えられる。
119 ガラス盤
半透明や固さなどに特徴があり、碗などの新しいガラス容器を生み出した。
120・121 ガラス連珠 「孫権を喜ばせた南方からの贈り物」
紺色のものは中国産、赤いものはインド・東南アジア産の可能性が指摘されている。
交州(現広東・広西ほか)の実力者、士燮(ししょう)は呉に服従。
孫権に毎年送った貢納品にはガラス製品も含まれていた。
122 高床倉庫・123 竈 「高温多湿な呉の南部ならではの工夫」
漢時代以降、様々な什器の模型「明器(めいき)」が墓に副葬された。
気候が高温多湿な呉の南部交州(現広東・広西ほか)では倉庫の明器は高床式。
竈の明器は煙突が傾斜して煙ごと熱を遠くに出す工夫がみられる。
124 五銖銭(ごしゅせん)
魏は新たな貨幣を発行せず、五銖銭をそのまま使用した。
本作は228年に無くなった曹休の墓に納められたものである。
125 直百五銖銭(ちょくひゃくごしゅせん)
劉備が215年に現在の四川省一帯を支配下に収めたとき、財政難を克服するために発行した。
126 大泉当千銭(だいせんとうせんせん) 「呉の硬貨」
「大泉当千」は孫権が発行した五銖銭1000枚分の高額貨幣であった。
呉はこのほかにも高額貨幣があったが、評判が悪く。孫権の時代にすべて廃止された。
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