/*THK Analytics用解析タグ*/

特別展「三国志」Webレポート☆魏・蜀・呉をリアルに体感

2019年12月30日

 

目次

第4章 三国歴訪

魏は漢王朝の中心地であった黄河流域に勢力を張り、蜀は自然の恵み豊かな長江(揚子江)上流の平原を押さえ、呉は長江中・下流の平野部と沿岸域を割拠した。
異なる風土は、それぞれに独自の思想や習慣を育んだ。
各地で出土する文物にも、三国それぞれの特色が現れている。

 

4-1 三国歴訪 – 魏

魏が支配したのは項が流域とその北側である。古くから文明が発達し、人口密度も高く、人材に恵まれた。
しかしもともと冷涼乾燥な土地であったうえに、さらに気候が寒冷化し、また戦乱も頻発したため、人口が減少し農業生産もふるわなくなった。
このため曹操は土地を人民に与えて開墾さえる屯田制を始め、食糧増産に成功して三国の戦いを有利に進めた。
魏の地域の出土品からは、魏が漢王朝の文化を引き継ぎ発展させていったさまがうかがえる。

070 「関内侯印(かんだいこういん)」金印

夏侯淵の子も授かった爵位を刻む亀形のつまみを持った金製の印章。
漢・三国時代では関内侯は皇帝、諸侯王、列侯に次ぐ身分で、一定の収入が保証された。
魏では夏侯淵は列侯となりその子が関内侯となった。

三国志展 「関内侯印」金印

三国志展 「関内侯印」金印

三国志展 「関内侯印」金印

071 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印

遠方の有力者にあたえた三国時代には、魏・蜀・呉の各国とも、辺境の在地勢力の指導者と友好をはかり、その勢力に応じて金、銀あるいは銅の印章を与えた。
本作は魏が中国西北地域の氐の指導者に与えた金印である。

三国志展 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印

三国志展 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印

三国志展 「魏帰義氐侯(ぎきぎていこう)」金印

072 定規

魏の尺度を伝える実物資料動物の骨を薄く削り、目盛りを刻んだ物差し。
当時の1尺の物差しで、その10分の1の1寸とそれを2分するする5分ごとの目盛りを正確に刻む。
三国時代の1尺が24cm前後であったことを伝える貴重な資料。

三国志展 定規

 

073 五龍硯(ごりゅうげん)

富裕層の硯複雑な装飾をもつ蓋を伴う石の硯(すずり)。
蓋には五頭の龍が浮彫されている。
このように凝った硯は富裕層が使用したものであったろう。
この時代の墨は丸薬のような粒で、水を加え磨り石ですりつぶして墨汁とした。

複雑な装飾をもつ蓋を伴う石の硯(すずり)。
蓋には五頭の龍が浮彫されている。
このように凝った硯は富裕層が使用したものであったろう。
この時代の墨は丸薬のような粒で、水を加え磨り石ですりつぶして墨汁とした。

三国志展 五龍硯

074 墨書紙(ぼくしょし)

紙が普及し始めた頃の貴重な肉筆資料丸く切り取られたこの紙は、銅鏡を収めた漆の鏡箱に緩衝材として敷かれていたもので、文意から書簡を再利用したと考えられる。
後漢時代の紙の普及と書体の変換を伝える資料として、きわめて貴重である。

三国志展 墨書紙

075 獣文鏡(じゅうもんきょう)

めでたい動物で飾った鏡背面に体が細長い2頭の獣を点対称に表す。2頭ともつまみの位置が胴の中央となっている。
三国時代の魏の墓から本作のような後漢時代につくられた鏡が出土することが珍しくない。

三国志 獣文鏡

076 六博盤(りくはくばん)

英雄たちも遊んだかも古代中国で流行したすごろく類のゲーム盤。
盤面にコマを置き、サイコロのようなもので数字を決めコマを進めた。実用品は木製であった。
本作は墓に納めるために造った土製品で、つくりはやや粗雑である。

三国志展 六博盤

077 厠圏(そくけん)

曹操も使ったか 魏に多い豚便所の模型便所小屋を併設した豚の囲いで、人糞を豚の餌にした。
漢時代から中国ではさまざまな設備や什器を模型にして墓の中に副葬した。
本作と同タイプの厠圏の模型は魏が支配した河南省で多く出土する。

三国志展 厠圏

078 方格規矩鳥文鏡(ほうかくきくちょうもんきょう)

日本との関係が注目されている六博盤(No.76)に通ずる文様を持つ。中央の方形は大地を、外周の円は天を、T字形とL字形の文様は天地を繋ぐ装置を表している。
この鏡の文様や銘文には、日本の古墳で出土する鏡と共通する要素があり注目される。

三国志展 方格規矩鳥文鏡

 

三角縁神獣鏡と方格規矩鳥文鏡(No.78)日本の古墳から出土する三角縁神獣鏡は中国製か日本製か、学者の意見が分かれている。
No78の方格規矩鳥文鏡は、銘文は文様に三角縁神獣鏡と通ずるところがある。
No78はどこで作られたか、そしてNo78を作った工人集団が三角縁神獣鏡も作ったのか、学会の熱い視線がこの鏡に向けられている。

ごめんなさい、切れてしまいました

079 鼎(てい)・ 080 鐎(しょう)

素焼きづくりの容器鼎は三脚と2つの把手をもつ煮炊きの容器。
鐎は注ぎ口、三脚、長い把手を持ち、酒を温めたり香りづけをしたりする容器。
本来は青銅製であるところを、安価な土器で代用した埋葬用の器である。
三国志展 鼎
No. 79鼎
三国志展 鐎
No.80 鐎

081 把手付容器(とってつきようき)

日本列島とのつながりを示す公孫氏の杯円錐台形の器身に逆F字形の把手。
公孫氏政権がが割拠した中国東北の遼寧省遼陽市で集中的にみられる器で、類品は日本列島の日本海側にも。
両者の間に人的な往来があったとみられる。

三国志展 把手付容器

082 炉(ろ)

公孫氏の炉円形部と台形部をあわせた形の炉。
金属で作るべき所を、副葬用に素焼きの土器でつくっている。
中国東北部の遼寧省遼陽市一帯に集中する形で、当地に割拠した公孫氏と密接に関わる器物である。

三国志展 炉

083 盒(ごう)

ここにタイトル側面が湾曲する盒は中国東北部の遼寧省遼陽市一帯に集中し、当地に割拠した公孫氏と密接に関わる器物とみられる。
中から魚骨が見つかる例もあり、料理を入れて副葬する習慣があったようだ。

084 刀魚文俎(とうぎょぶんそ)

漢の後継者たらんとした公孫氏の思惑俎(まないた)の上に刀と魚を配する。
当時の知識人であれば「俎・刀・魚」と言えば漢の劉邦の「鴻門の会」を想起したことであろう。

三国志展 刀魚文俎

公孫氏の俎 ーモノ語る「鴻門の会」前3世紀、漢の劉邦は楚の項羽と宴席をともにした。しかしそこに劉邦殺害の計が仕組まれていた。これを知った部下の樊 噲(はんかい)は、劉邦が離席したのを見計らい、「項羽ら刀と俎で我々は魚肉。戻れば命はありません」と宴席に戻らぬように促し、劉邦は危機を脱した。その後、劉邦は天下統一の大業をなして前漢王朝を樹立。時が過ぎて3世紀。半独立政権を樹立した公孫氏のもと、魚と刀を組み合わせた俎の模型が数多くつくられた。公孫氏の天下統一の野心の表れであろうか。

085 井戸

町の公共井戸欄干が巡り坂道がつく点が通常の生活井戸とは格式が異なる。
おそらくは消防井戸などの公共井戸と考えられ、この模型が副葬されたのは町を監督する立場の有力者の墓であった可能性もある。

三国志展 井戸

086 毋丘倹紀功碑(ぶきゅうけんきこうひ)

東アジア古代史の重要資料「三国志」は魏が高句麗を攻めて大勝利を収め、征服地に記念碑を建てたと記しており、本作はその破片と考えられる。
魏の将軍の名は毋丘倹(かんきゅうけん)とされてきたが、近年の研究で毋丘倹(ぶきゅうけん)とされる。

三国志展 毋丘倹紀功碑

三国志展 毋丘倹紀功碑

 

087 北園1号墓壁画模写
車馬行列図、騎馬行列図、楼閣図

 

車馬行列図公孫氏の根拠地であった現在の遼寧省遼陽市の古墳壁画の模写である。
本図には馬車3両とそれを護衛する騎馬隊が描かれる。
中央の2頭立ての馬車の位が高く、墓の主人が乗った車を表した可能性がある。

北園1号墓壁画模写 車馬行列図

 

騎馬行列図騎馬行列の一部。
中央から右下に青く細長く壁面の剥落と亀裂の痕が描かれ、その左に黒と赤の二段に飾りのついた棒を持った騎馬人物がいる。
魏が倭女王卑弥呼(わのじょおうひみこ)にあたえた黄幢(こうどう)とはこのような形の標識と推定される。

北園1号墓壁画模写 騎馬行列図

 

楼閣図楼閣の頂上には鳳凰を象った飾りと細長い旗飾りがつく。
楼閣の左には黒い服を着た二人の人物を、右にはお手玉や剣をもてあそんだり倒立している芸人と見物人を描き、当時の繁栄の様を示している。

北園1号墓壁画模写 楼閣図 

4-2 三国歴訪 – 蜀

もともと蜀は中国内陸部にある四川盆地西部の地名であった。
221年に劉備がこの地に建てた国は漢王朝の再興が国是だったので、漢(もしくは季漢(りかん))と号し、前漢・後漢と区別するため、後世に蜀や蜀漢と呼ばれた。
後漢時代から農作物・絹・漆・鉄・塩などの物産が豊かで、「天府(てんぷ)」と謳われた。天険にに囲まれた地勢は敵を防ぎやすく、地域色の濃い文化や信仰が花開いた。
単独の地域ながら、263年に魏に降るまで40年以上も独立を保ったのは、こうした地域の特性と無縁では無い。

088 鎮墓俑(ちんぼよう)

ながーい舌で威嚇中長い舌を胸まで垂らす。右手に細長い道具、左手に毒蛇を握る。
角・牙など動物の要素とともに、毒蛇を操る力まであわせもつ。
蜀の地の後漢墓で出土した。
超能力で邪気や盗賊から墓地を守るため、副葬された

三国志展 鎮墓俑

089 舞踏俑(ぶとうよう)

右手を挙げて蜀の踊りの「決めポーズ」冠を被った女性がやや腰を落とし、袖を掴んだ右手をあげ、左手では上着の長い裾を少し引っ張り上げる。
恐らくこれが後漢から三国時代にかけての蜀で流行して踊りの象徴てきなポーズなのだろう。

三国志展 舞踏俑

三国志展 舞踏俑

090 舞踏俑(ぶとうよう)

三国志展 舞踏俑

091 奏琴俑(そうきんよう)

腕まくりして演奏中俑とは副葬用に作られた人形のこと。
蜀が支配した益州(現四川省、重慶市など)では生動感に富み、柔和な表情の多様な俑がつくられた。
琴を弾く姿の俑も益州に多い。横座りの姿勢で袖をまくり演奏に興じる。

三国志展 奏琴俑

092 説唱俑(せっしょうよう)

曹植も大好き! 漢時代のおもしろ芸人半裸の男性が片膝をつき、快活に話芸を披露する、このような異形の芸人を説唱や俳優と呼んだ。
曹操の息子・曹植は高い教養と文才の持ち主であるが、説唱の踊りや話芸の真似事も得意だった。

三国志展 説唱俑

093 女子俑

これぞ「天府」益州の豊かさ右手に魚を、左手に鴨と思しき食材をさげた女性と、俎の前に正座する男性を表している。
俎の上には魚のほかに家畜の頭など様々な食材が並ぶ。「天府」と呼ばれた益州の地の豊かな物産が窺える。

三国志展 女子俑

094 調理俑

095 犬

蜀のいかつい番犬逞しい大型犬が座った姿勢で、尖った耳をそばだてている。
黄巾の乱が起きた光和7年(184年)以降につくられた、ある墓の入り口付近に置かれていた。
不穏な世相を反映してか、墓を守る番犬の姿もいかつい。

三国志展 犬

三国志展 犬
後ろから

096 溜池模型

蜀の富は溜池と水田にあり水田灌漑用の溜池を象ったもの。
内部を堤でT字形に区画し、その外側に小舟、鴨、蓮、魚などを配する。
同じ墓からは水田模型も出土。溜池と水田は蜀の豪族が経営した荘園の経済的基盤、富の源泉だった。

三国志展 溜池模型

097 西王母図磚(せいおうぼずせん)

戦乱の世に人々が願った幸せ女神の西王母が中央の龍虎の座につく。
手前で額づく男性はこの磚の墓に埋葬された人物で、西王母に生死を超えた仙人となる昇仙(しょうせん)を請願。
昇仙は究極の幸福と信じられた。蜀は西王母を表した文物に優品が多い。

三国志展 西王母図磚

098 車馬出行図磚(ばしゃしゅっこうずせん)

馬車のパレードの行き先は?騎馬の従者とともに2頭立ての馬車が橋を渡る。
磚(レンガ)は墓の壁に嵌めこまれていたもの。隣の磚にも馬車が描かれたと推定される。
この長い車列の行き先は西王母の棲む天上世界だったと考えられる。

三国志展 車馬出行図磚

099 製塩図磚

蜀の塩作り全行程が一枚に画面左で櫓(やぐら)を組んで地下から塩水を汲み上げ、右下の竈(かまど)では山から背負ってきた薪(たきぎ)を燃やして塩水を煮詰める。
内陸ながら蜀は古来食塩の産地であり、劉備は塩の専売制を敷いて国庫の重要な財源とした。

三国志展 製塩図磚

100 神木図磚

神秘の樹木に祈りをささげるいずれも樹木を崇拝する人々が画題の磚である。
片方の磚は木のそばに「木蓮」と書いてある。木蓮はおめでたい神木の一種だった。
蜀の地では「揺銭樹」(No.150)など樹木信仰にかかわる文物が多く見つかっている。

三国志展 神木図磚

三国志展 神木図磚

101 金馬書刀(きんばしょとう)

古代中国の消しゴム書刀は、木や竹に書いた文字を削り取るのに用いた小刀。
三国志の時代には紙が普及しつつあったが木や竹の札も盛んに使用され、書刀は役人の必須の道具であった。
本作は金象嵌で馬の図をあしらった高級品。

三国志展 金馬書刀

4-3 三国歴訪 – 呉

呉はもと長江の下流域一帯を示す地名であった。
後漢の末期、黄巾の乱の平定に功を上げた孫堅は呉の豪族たちと結束して当地に基盤を固め、子の孫策とその弟の孫権がこれを受け継いだ。
呉の影響力は一地方には留まらなかった。高い造船技術と地の利を生かし、東南アジアや南アジアとつながった。
諸国の物産は呉にもたらされ、呉もまた青磁を世に送り出した。

102 竹簡(ちくかん)

竹に書かれた行政文書竹簡とは竹の細長い札に文字を書いたもの。
湖南省長沙市相馬楼では、三国時代の呉の竹簡が大量に発見された。
当時は紙が普及しつつあったが、役所では竹の札も盛んに使用されていた。
三国志展 竹簡
(1)
三国志展 竹簡
(2)
三国志展 竹簡
(3)
三国志展 竹簡
(4)

103 「童子史綽(どうじししゃく)」名刺

三国時代の名刺「童子である史綽がごあいさつします。ご機嫌いかがですか?本籍は広陵郡高郵県、字は澆瑜です」と記されている。
類例は他の墓でも見つかっており、当時の名刺は大きさや形式が定まっていたことが知られている。

三国志展 「童子史綽」名刺

三国志展 「童子史綽」名刺

 

上の写真だとわかりにくいので一つを拡大してみました。
現地の解説と付き合わせると下記のように解釈できるそうです。

104 化粧盤

呉の夫人のおしゃれアイテム鏡や髪留めの道具である釵(さい)のそばから出土することが多いことから、化粧の際に眉を引いたり胡粉(こふん)を調合したりするためのパレットと考えられる。
呉の墓では、もっぱら女性の埋葬に伴うようだ。

三国志展 化粧盤

105 俑

一人一役 主人に仕える者たち呉の俑は、素朴ながらも場面構成が多彩だ。
円錐の帽子をかぶるのは、専門的な技能で主人に仕える者。
冠をつけたのは、主人の職務遂行に関わる者。
髷を結わえて座す人物は調理をしている。

三国志展 俑

三国志展 俑

三国志展 俑

※No.106展示品は非公開

107 釜(ふ)

孫権がつくらせた万能のうつわ調理や水汲みなど多くの用途に使われた。
口縁部と胴部の銘文に、黄武元年に呉の武昌の官営工房で3438番目につくったとある。
建業(現南京)からの遷都直後に当たる当時の武昌では、開発や生産が急務だった。

三国志展 釜

108 画文帯環状乳神獣鏡(がもんたいかんじょうにゅうしんじゅうきょう)

日本でも出土する形式の鏡湖北省鄂州市一帯は三国時代には銅鏡生産が盛んであった。
本作は外周に龍などの画像からなる文様帯をもち、上面が輪のようになった乳(小型の突起)を伴う神獣鏡である。
この形式の鏡は日本でも出土する。

三国志展 画文帯環状乳神獣鏡

109 同向式神獣鏡(どうこうしきしんじゅうきょう)

天下大楽神や獣の象が同一方向から見るよう描かれていることから、同向式神獣鏡と呼ばれる。
銘文で判読できるのは「天下大楽」「日月」などごく一部である。
この時期の呉の鏡には、銘文に読めない文字を多数含む例がある。

三国志展 同向式神獣鏡

110 「嘉禾五年(かかごねん)」重列式神獣鏡(じゅうれつしきしんじゅうきょう)

二三六年制作重列式神獣鏡は多数の神像を階段状に配置したもの。
この鏡は銘文から嘉禾五年の作と分かる。
当時、多数の神々を信仰する宗教が発展していたことが分かる。こうした信仰から道教が発展した。

三国志展 「嘉禾五年」重列式神獣鏡

111 仏像夔鳳鏡(ぶつぞうきほうきょう)

仏像のはじまり中央のつまみから四方向に葉の形をした文様がのび、葉と葉の間に2羽の鳳凰(夔鳳)が向かい合う。
葉のひとつに、光背をもつ仏像が表されている。
中国の初期仏教を研究するうえで貴重な資料のひとつである。

三国志展 仏像夔鳳鏡

112 扁壺(へんこ)

伝統の器種を青磁で継承扁壺は戦国時代より青銅や漆でつくられた器種で、本作はそれを江南の越窯(えつよう)において青磁で写したもの。
南京北郊に位置する郭家山一帯は当時の有力者が眠る墓が集まる場所として知られる。

三国志展 扁壺

113 羊尊(ようそん)

呉の青磁の一級品頭部に孔が空けられ、脇腹に羽らしきものが刻まれた羊の姿。
宗教的な意味と用途があったことが推測される。
紀年資料を伴った墓の出土品であり、堂々たる姿となめらかな草緑色の釉をそなえる点で第一級の資料といえる。

三国志展 羊尊

114 神亭壺(しんていこ)

呉の豊かさを垣間見る神亭とは呉から東晋にかけて焼かれた明器(めいき)の一種。
江南の豊かさを裏付けるように、壺上に楼閣や貯蔵用の甕(かめ)、家畜や人物などをびっしり配す。
銘から、かつて孫堅も務めた「長沙太守」に因む(ちなむ)ものであることがわかる。

三国志展 神亭壺

三国志展 神亭壺
反対側から

115 槅(かく)

高度な技術で焼き上げた槅とは「仕切りのある器」のこと。
漆器を祖形とし、それを青磁で忠実に再現している。
呉から晋時代へかけて、青磁は動物の姿をとりいれた呪術的で不思議な器種から、次第に日常生活にも使用できる実用器が量産されるようになる。

三国志展 槅

116 仏坐像

冥界へ行ってもなおお願いしたい仏座像は墳墓の前室と後室をつなぐ甬道(ようどう)に安置されていた。
つまりこの仏像は当初から礼拝対象として制作されていたことをしめしており、仏教美術史上の意義は極めて大きいといえる。

三国志展 仏坐像

117 盤口壺(ばんこうこ)

豊かな呉の文化土壌下絵付きの鉄絵で龍や鳳凰とおぼしきものや様々な動物が描かれ、パルメットや鬼面、仏像なども貼り付けられている。
宗教的な意味合いを窺わせつつ、異国風の華やかな貼付け文に対外交易で栄えた呉の豊かな文化土壌をみることが出来る。

三国志展 盤口壺

118 銅鼓(どうこ)

「山越」の神聖なる太鼓銅鼓は中国南部の漢族とは異なる人々が祭祀儀礼などの重要な場面で使ってきた。
本作のようにカエル、騎馬人物像、鳥の立体装飾を持つ例は、呉の「山越(さんえつ)」と呼ばれた集団と関わりが考えられる。

三国志展 銅鼓

三国志展 銅鼓
アップ
三国志展 銅鼓
角度を変えて

119 ガラス盤

呉の南部の特産品古代中国では鉛とバリウムを主成分とするガラスがつくらたが、呉の交州(現広東・広西ほか)産のガラスはカリ硝石、石英を原料とした。
半透明や固さなどに特徴があり、碗などの新しいガラス容器を生み出した。

三国志展 ガラス盤

120・121 ガラス連珠 「孫権を喜ばせた南方からの贈り物」

紺色のものは中国産、赤いものはインド・東南アジア産の可能性が指摘されている。
交州(現広東・広西ほか)の実力者、士燮(ししょう)は呉に服従。
孫権に毎年送った貢納品にはガラス製品も含まれていた。

三国志展 ガラス連珠

三国志展 ガラス連珠
ピンボケごめんなさい

 

122 高床倉庫・123 竈 「高温多湿な呉の南部ならではの工夫」

漢時代以降、様々な什器の模型「明器(めいき)」が墓に副葬された。
気候が高温多湿な呉の南部交州(現広東・広西ほか)では倉庫の明器は高床式。
竈の明器は煙突が傾斜して煙ごと熱を遠くに出す工夫がみられる。

三国志展 高床倉庫
122 高床倉庫
三国志展 竈
123 竈

124 五銖銭(ごしゅせん)

漢から魏の硬貨漢王朝は、前118年以来、「五銖」の2文字を表した銅貨、五銖銭を使用した。
魏は新たな貨幣を発行せず、五銖銭をそのまま使用した。
本作は228年に無くなった曹休の墓に納められたものである。

三国志展 五銖銭

125 直百五銖銭(ちょくひゃくごしゅせん)

蜀の硬貨蜀は五銖銭とともに「直百五銖銭」の文字を表した、一枚で五銖銭百枚文の価値を持つ貨幣を使用した。
劉備が215年に現在の四川省一帯を支配下に収めたとき、財政難を克服するために発行した。

三国志展 直百五銖銭

126 大泉当千銭(だいせんとうせんせん) 「呉の硬貨」

呉の硬貨呉は五銖銭とともに高額貨幣も発行した。
「大泉当千」は孫権が発行した五銖銭1000枚分の高額貨幣であった。
呉はこのほかにも高額貨幣があったが、評判が悪く。孫権の時代にすべて廃止された。

三国志展 大泉当千銭

 

次ページ<第5章 曹操高陵と三国大墓>に続きます。

その他

Posted by kaze