/*THK Analytics用解析タグ*/

特別展「三国志」Webレポート☆魏・蜀・呉をリアルに体感

2019年12月30日

 

目次

第5章 曹操高陵と三国大墓

後漢時代の末期から三国時代になると、支配者対置は墓づくりに対してこれまでとは異なる路線を歩み出した。
豪華さを競うのではなく。質素倹約を貴ぶようになったのである。
2008年~09年にかけて発掘された曹操高陵(曹操墓)をはじめ、各地の著名な古墳は、そうした有力者たちの試行や社会の価値観を具現化したものといえる。

曹操高陵 稀代の英雄が眠る質素な墓

5-1 曹操高陵

2008年から2009年にかけて河南省安陽市で発掘された墓は西高穴(せいこうけつ)2号墓と命名された。
出土品は後漢から三国時代の過渡的な様相を呈し、墓の規模と構造は諸侯王に匹敵した。
また墓が築かれた場所は古記録にみる曹操高陵の所在地と同じであった。
さらに副葬品には「魏武王」と記した石牌があった。
魏武王(ぎのぶおう)とは曹操を指すことから、西高穴2号墓こそ稀代の英雄を葬った曹操高陵であることが確実となった。
史書によると。曹操は後漢時代の最末期である220年正月に亡くなり。同年2月に魏の武王として葬られた。
この10月、曹丕は漢にかわって魏を創建し、翌月には父・曹操を武皇帝とした。
曹操夫人の卞氏(べんし)は230年に亡くなり、同年7月に曹操高陵に合葬された。

 

高陵模型

2008年より発掘が始まった曹操高陵の原寸大の墓室模型が展示されています。
もちろん中に入ることが出来ます。

曹操高陵模型 全体図
三国志展
曹操高陵模型 全体図 左側拡大
三国志展
曹操高陵模型 全体図 右側拡大

 

三国志展
曹操高陵、突き当たり曹操の棺が置かれていたあたり
上の壺が置かれている場所です

 

 

三国志展
先ほどの位置を少し離れた地点から
ここから撮影しました

 

三国志展
壁はレンガのような質感が再現されています
少し引いて撮影
ここの壁の写真です

三国志展
実物の内部写真です。大きなパネルで展示されていました

127 石牌(せきはい)

曹操高陵の特定につながった副葬品目を刻んだ板。
縦長の1枚には「魏の武王(曹操)」愛用の虎をも倒す大戟」と刻む曹操高陵を特定した決定材料。
他の2枚には「赤色の文様の直領と白色の下衣」、「三尺五寸(高さ80cm)の屏風」と刻む。

三国志展 石牌

三国志展 石牌

 

三国志展 石牌

128 鼎(てい)

限られた有力者だけが所持把手と3つ足をつけた器物である 鼎は、支配者の徳を表すものとして重んじられてきた。
この時期、複数の鼎を副葬できた人物は有力者に限られており、最大数は皇帝の12口であった。

三国志展 鼎

三国志展 鼎

三国志展 鼎

 

曹操高陵出土の鼎の特徴は「く」の字形の把手と、そろばん玉形の胴部である。
同じ特徴を持つ銅製の鼎が、朝鮮半島南東部・ 蔚山(ウルサン)の下岱(ハデ)23号墳(3世紀前半)から出土している。

 

129 罐(かん)

南方の青磁か被葬者のために食料などを入れて納めたであろう貯蔵用の器。
釉の剥落止めの意だろうか、胴部に目の粗い布を押しつけたような細かい凹凸がみられる。
こうした粗製の青磁は南方で焼かれたものと考えられるが、生産窯の特定には至っていない。

三国志展 罐

130 罐(かん)

誰の求めでつくられたのか曹操高陵から出土した高火度焼成の白磁。
胴裾まで白化粧をして灰を主成分とする透明釉を掛ける。
白磁の誕生は6世紀後半、およず随の頃と考えられおり、それを遙かに遡る本作品について、類例および関連資料の発見が待たれる。

三国志展 罐

曹操高陵模型の中央に飾られています。
上からのスポットライトに浮かび上がっています。

三国志展 罐
曹操高陵模型内にこのように展示されていました。 印象的な雰囲気です。

131 釵(さい)

今では用途不明髪飾りのようにも見えるので釵と呼ばれているが、用途がはっきりしない。
類品は中国各地で発見されており、一時期大変流行した品物であることが確かであるが、壁画や俑には表されていない。
謎の器物。

三国志展 釵

132 飾板(かざりいた)

用途不明。謎多き曹操高陵三国時代の有力者の墓からしばしば銀製の装飾品が出土する。
本作はそのなかでも凝った意匠である。
何かに取り付けられていたようだが、詳細は不明である。

三国志展 飾板

133 開閉器(かいへいき)

果たして何に使ったのか?頂部の2つの突起をつまむと砲弾形の部分が左右に開く仕組みである。底部は開口している。
これにより何か砲弾形のものを成形したとも考えられるが、詳細は不明である。

三国志展 開閉器

134 觿(けい)

帯の結び目を解いた先端を帯の結び目に挿して、帯を解くのに用いた道具とされている。
透彫り(すかしぼり)で龍文を表す。
觿は皇族や王族墓から出土するもので、埋葬者の高い格式を示すものである。

三国志展 觿

135 瑪瑙円盤(めのうえんばん)

当時はとても貴重な瑪瑙の円盤です。

 

136 支脚座(しきゃくざ)

曹操と装飾を結ぶ石何かの部材と思しい。
中国の地質学では「竹葉状灰石(かいせき)(Warmkalk)」に分類される。
曹操の息子である曹植の墓からも、形状はことなるものの同種の石材を用いた製品が出土している。

三国志展 支脚座

137 侍俑(じよう)

最高権力者に付き従う俑は、亡き主人に死後も仕えるため生身の人間にかわって副葬した人形。
前後の合わせ型でつくったものであるが、型からはみ出た粘土も整えずにそのままにするなど、粗雑な作りである。

三国志展 侍俑

138 画像石

画像に託したメッセージ曹操高陵の墓室は磚積(せんづみ)で構築されているが、一部に画像の彫刻を持つ石を用いていた。
墓室内の床上で見つかった画像石は粉々に砕けていたが、比較的大きな破片からは彫刻の題材を窺い知ることが出来る

 

佼人(こうじん)人物の横に「佼人」と刻む。佼人とは主君に近侍した美少年のこと。

三国志展 画像石

白虎仁(びゃっこじん)怪獣の横に「白虎仁」と刻む。白虎はおめでたい動物の一種で、ときの帝王の徳が高いと現れる。

三国志展 画像石

両手に槌を持つ人物両手にT字形の槌をもつ髭の人物は、太鼓をたたいているものと考えられる。

三国志展 画像石

 

5-2 曹丕と鮮卑頭

曹操の子・曹丕にはどうしても手にいれたいものがあった。「廓落帯」という飾り帯である。
しかしすでに作り手が絶えていたため、手本となる類品が必要であった。
臣下の劉 楨(りゅうてい)が「廓落帯」を所持していたので、曹丕は手紙を認めて(したためて)拝借を請い、劉 楨は快く差し出した。
廓落帯とはいかなる帯か。この帯の先端には「鮮卑頭(せんぴとう)」と呼ぶ華やかな金具がついていた。
鮮卑頭は漢時代の遺跡からも時おり出土する。三国時代の後、西晋時代には白玉でもつくられた。

139 金製獣文帯金具(きんせいじゅうもんおびかなぐ)

魏の文帝曹丕も欲した体躯をくねらせた瑞獣を配し、細部を金粒や貴石象嵌で飾る。
当時、こうした帯先金具の一名を鮮卑頭といい、鮮卑頭をつけた豪奢な帯を廓落帯と称した。
廓落帯は、魏の文帝・曹丕も欲した。

 

三国志展 金製獣文帯金具

140 石牌(せきはい)

魏の情報満載副葬品の名前を刻んだ板。
中央の1枚は金の「鮮卑頭」という帯金具の名があり、左の二行銘の石牌には魏志倭人伝にも登場する「縑(かとり)」という絹織物の名がみえる。

三国志展 石牌 

三国志展 石牌 

三国志展 石牌 

141 白玉獣文鮮卑頭

皇帝ゆかりの品かこ体躯をくねらせた瑞獣をあしらった帯留具。
裏面の銘から当時「鮮卑頭」と呼ばれていたことが分かる。

三国志展 白玉獣文鮮卑頭

 

5-3 魏の曹植墓

曹植(192~232)の文才は、父・曹操や兄の曹丕を凌ぐほどであった。
しかし曹操が後を継がせたのは曹丕であった。都から遠ざけられた曹植は失意の晩年を送った。
1951年、現在の山東省東阿県で曹植の墓が発掘された。
すでに盗掘に遭っていたが、それでも土器、石製品など132点の副葬品が出土した。
なかでも中国古来の祭器である玉器を象った石製品は、同様のものが曹操高陵にも副葬されていた。
贅沢な葬儀を禁じた曹操の考えを反映したものなのかもしれなない。

142 圭(けい)、璧(へき) 「伝統の復活」

伝統の復活いずれも中華の伝統的な儀礼の道具だが、後漢時代以降は衰退した。
曹操は魏公の位につくと、古の儀礼制度を復活させた。
魏の墓に圭や壁が副葬されるのはこうした経緯によると推測される。

三国志展 壁

壁ごめんなさい、圭の写真取り忘れました。

143 縁松石円盤(りょくしょうせきえんばん)
144 瑪瑙円盤(めのうえんばん)

 

曹植が所持いずれもレンズ状に加工したもので形状や外縁に残る擦痕(さっこん)から、当初は何か板状のものにはめ込んでいたようだ。
類例が知られておらず、当時としても希少価値のたかいものだったようだ。

 

三国志展 縁松石円盤
縁松石円盤
三国志展 瑪瑙円盤
瑪瑙円盤

145 石球 「曹操と曹植を結ぶ石」

後漢から三国時代においてはこの曹植墓のほかは曹操高陵で出土しているだけである。

三国志展 石球
ピンボケごめんなさい

146 耳杯(じはい)

曹植のさかずき耳杯は酒や汁物に用いた器。
曹植が生前用いたのは木製漆塗りの耳杯と推測されるが、副葬ように素焼きの土器が用いられた。
亡き曹植はこの器で一献傾けながら今も詩作にふけっているだろう。

展示物の写真取り忘れました。(_ _)

 

147 罐(かん)

曹植と神仙思想

曹植にささげた仙薬「薬甘」と押印して焼成。
本作は福装用の容器なので、薬とはつまり死後も安寧が続くようにとの願いを込めた延命長寿の仙薬と推測される。
押印のある三国時代の容器はこの曹植墓出土例だけ。

三国志展 罐

 

三国志展 罐

148 水鳥、鶏、犬

曹植の庭先を思う魏の動物模型は後漢時代のものと比べると簡素でどこか愛嬌が漂う。
曹植の庭先にもこのような家畜がいたかと思うとなんとも微笑ましい。

三国志展 水鳥、鶏、犬

ちょっとかけてしまいました

149 墓門(ぼもん)

魏の大型墓にようこそ一部の大型墓では地下の墓室と墓道との間に墓門を設けた。
この墓門には盾を捧げる警備の男性と箒を持った男性が左右に彫刻されている。
中国では貴人を迎えるとき、敬意を表して箒を持つことがあった。

三国志展 墓門

三国志展 墓門
少し斜めから撮影
三国志展 墓門
もう少し斜めから撮影
三国志展 墓門
展示全体

150 揺銭樹(ようせんじゅ)

金のなる木は蜀にあり四方に伸びる板状の枝葉には不老不死の西王母、鹿に乗る仙人などのほか、約400個もの銅銭を飾る。
揺銭樹は大半が蜀の支配した地域(現四川省、重慶市ほか)の墓で出土。
当地での信仰に深くかかわるものだった。

三国志展 揺銭樹

ピンボケしてしまいました

151 揺銭樹台座 「龍、虎、墓蛙、仙人をともなう有翼獣」

揺銭樹(No.150)のような青銅の揺銭樹が差し込まれていたが発掘時には台座以外ほどんど残っていなかった。

三国志展 揺銭樹台座

152 天門図棺飾

死者の霊魂を天上世界にいざなう木棺に飾った円板で、表面中央に闕(けつ)を刻む。
闕とは宮殿などにともなう一対の門柱で、屋根を持つ。
この闕は「天門」という銘が加わり、神々や仙人の棲む天界への入り口を象徴している。
蜀の東部(現重慶市)で出土。

三国志展 天門図棺飾

三国志展 天門図棺飾

153 人面文瓦

ユニークな表情の呉の瓦屋根の軒先を飾る人面模様の瓦で、南京を中心にみられる独特な意匠。
孫権が地位に就いた黄龍元年(229)秋に呉の都となり、新たな文化の中心地となる南京(建業)だが、その気風は独自性の強い瓦にも現れている。

映画「ローマの休日」に出てくる「真実の口」似ていませんか?

三国志展 人面文瓦

154 虎形棺座

呉の有力者は虎をも従える棺を置くための石製台座。
うずくまる虎は古来虎裾(ききょ)と称して、武功により地域をおさめることの意味があった。
呉の墓として最大規模を誇る上坊1号墓にふさわしい台座である。

三国志展 虎形棺座

三国志展 虎形棺座

三国志展 虎形棺座

三国志展 虎形棺座
展示全景

155 指輪

呉の貴人の指もとを飾る向かい合う2頭の龍を彫刻。
表面は手擦れで摩滅し、実際に使用していたようだ。
龍が左右からくわえているのは、不老不死の仙薬を持つとされた西王母を象徴する髪飾り「勝(しょう)」かもしれない。

三国志展 指輪

156 筆・書刀

知識人のシンボル三国時代は紙が普及する一方で、竹や木にも書写に用いられた。
書刀は書き損じた竹木の表面を削るのに用いた。
筆と書刀は知識人の必需品として墓にも副葬された。
青磁でつくるのは呉ならでは。

三国志展 筆・書刀

157 牛車

牛車に乗るのが今風古来、貴人の乗り物は馬車だった。
出土資料からみると2世紀末から牛車に乗用する例が散見されるようになり、三国時代には呉の地で増加する。
本作もまた呉の有力者からの出土。

三国志展 牛車

 

 

エピローグ 三国の終焉―天下は誰の手に

つわものたちが激戦を繰り広げた三国時代。
最後に天下をおさめたのは魏でも蜀でも呉でもなかった。
魏の武将として力を強めていった司馬氏一族であり。司馬炎が建てた西晋王朝であった。
西晋の司馬政権は各地の有力一族の基盤をまもりつつも、あらたな秩序を生み出していった。

158 「晋平呉天下大平(しんごをたいらげてんかたいへい)」磚

晋、呉を平らげ天下太平呉の都建業に近い所で発見された。
「墓の主人の姓は朱、本籍は江乗(こうじょう)で、上描に住んだ。庚子(こうし)の歳(280年)に晋が呉を平らげ、天下太平となった」と記す。
三国時代の終結を伝える希有の考古資料。

三国志展 「晋平呉天下大平」磚

159 蟬文冠飾(せみもんかんしょく)

天子や重臣のしるし蝉の文様をあしらった天子や重臣の金の冠飾。
大きな目と粒金で飾られた超絶技巧が注目される。
王義之(おうぎし)ゆかりの地に営まれた大型の磚室墓から出土した。
被葬者は琅琊(ろうや)王氏の高位の人物と考えられる。

160 罐

幼子の墓に納められた幼い3人の子供が眠っていたこの墓には、金銀玉の装身具、漆器、銅器、鉄器、陶磁器が大量に納められたいた。
小さくすぼまって外反する口をもつこの容器はガラスの小壺を連想させる。
貴重な内容物が納められていたのであろう。

三国志展 罐

161 壺

越窯の盛時を裏づけるこの墓からは約30件の青磁が出土した。
壺のほか、碗、鉢、天鶏壺(てんけいこ)など、種類はバラエティに富み、質の高い優品が揃う。
江南の青磁生産の盛時を裏づけるとともに、被葬者の地位の高さや、古く要衝として知られた臨沂の土地柄もうかがえる。

三国志展 壺

162 獅子形盂(ししがたう)

都の洛陽に安寧のとき獅子の姿をした青磁の容器。
金属に倣ったもので、一説には燭台、もしくは棒状のものを挿しこんで使用したともいわれ、何かの台であったと推測される。
本作品は都洛陽の出土品で、類例の中でも郡をぬいた造形美を誇る。

三国志展 獅子形盂

次ページ<NHK「人形三国志」とのコラボレーション>に続きます。

その他

Posted by kaze