特別展「三国志」Webレポート☆魏・蜀・呉をリアルに体感
第3章 魏・蜀・呉 三国の鼎立
魏・蜀・呉の鼎立は後漢時代の末期に形づくられ、それぞれの境界では特に熾烈を極めた。
220年、曹操が没し息子の曹丕が後漢から帝位を奪うと、蜀の劉備、呉の孫権はこれに反発、相次いで建国を宣言した。
後漢時代から三国時代の兵器や著名な合戦にまつわる文物から、新時代へと突き進む時代のうねりを感じ取ろう。
オブジェ 大量の矢
船の戦いでは大量の矢が戦場を行き交ったという。
矢と言えば、三国志好きが真っ先に浮かぶのが赤壁の戦いではないだろうか?
この展示をみた瞬間、赤壁にタイムスリップする。
まずは攻撃側。
敵に向かって無数の矢を放ちます。
次に受け手側として見てみます。
生きた心地しませんね。
3-1 漢から三国の武器
当時の主要な武器は、剣、刀、槍(矛)と弓矢である。
なかでも、柄に弓を取り付け引き金をひいて矢を発射する弩(ど)は殺傷力が強く、戦いで重要な役割を果たした。
また石も重要で、城の攻防戦では、石を飛ばして敵の櫓(やぐら)を破壊する投石機もしばしば用いられた。
鉄製の鎧が普及しつつあったが、革製の鎧も用いられたようである。
なお、「三国志演義」では大砲や地雷のような火薬を用いた武器も登場するが、火薬の登場はずっと後(9世紀)の事でこの時代には存在しなかった。
漢から魏の武器
039 弩機(弩機)
弩機上面の銘文に、正始2年(241)に魏の皇帝直属の工房・左尚方で製作せた工人5名の官職、氏名が表記する。
所謂ボウガン。展示品はトリガー部分。
弩機
040 矛(ほこ)
中原を駆けた騎兵の鋭鋒矛の先端部で、細長い扁平なつくりが特徴。
突撃を特徴とする騎兵が装備することで、一層の刺突機能を発揮した。
呂布や公孫瓚などが率いた強力な騎兵隊の矛も恐らくこのような形のものだったろう。
041 戟(げき)
刺突に加え、横に飛び出た部位で相手を挟んだり、引き倒す使い方もあった。
矛と並んで、三国時代のもっとも一般的な武器だった。
042 剣
銅から鉄へ中国では前100年頃から、高価で折れやすい銅剣に代わって、安価で折れにくい鉄剣が発達した。
本作の茎(かなご)には本来あった木製の柄を止める釘が残っている。
本作の長さは98cmで、鉄剣としては最大級に属する。
蜀の武器
043 矛
柄を含むすべてが鉄で出来た矛の一種。
5世紀に編纂された「史記集解」の注釈に引かれた鉄柄の矛形武器「せん」がこれに当たる。
「後漢書」馬融列伝の記述から、「せん」は投槍だったと考えられる。
丸ごと鉄の槍が空を飛ぶ
044 戟
なかには柄を付けず手に持って使う手戟など武芸の熟練を要する特殊なものもあった。
曹操の護衛・典韋も双戟という特殊な戟を好んだ。
045 環頭太刀(かんとうたち)
実用武器として漢代に完成し、三国志の時代に広く普及した。
その背景には、異種の鋼を貼り合わせる鍛冶技術の革新によって、武器の性能が向上したことがあげられる。
046 鉤鑲(こうじょう)
上下の棒状部位と中央の突起で相手の攻撃を受け、ときに押し返す。
戟や刀のように振り回して使う武器に有効だった。魏の曹丕は一対の鉤鑲(鑲盾)を両手で扱う特殊な武芸を学んだ。
064 蛇矛(じゃぼう)
本作は、三国時代から数百年以上も昔の作例で、中国西南部でさかえた石寨山文化とよぶ青銅器文化の遺跡から出土したもの。
蛇矛レプリカ
ゲームシリーズ「新・三國無双」の張飛の蛇矛を、三国志演義に記された長さで再現。
呉の武器
048 鏃(ぞく)
赤壁出土と伝わるこれらの鏃は、当地の激戦で使われたものだろう。
鏃とは矢尻(やじり)のこと。
049 環頭太刀(かんとうたち)
銘文は辟邪・護身を意図して「・・・四年・・・除殊辟永・・・」と刻み、線分や幾何学文を施す。「古今刀剣録」に記される孫権がつくらせた刀剣「大呉」を想起させる。
050 武士俑
素朴な造形ながら冑(かぶと)をつけた姿は三国時代の武装の一端を示すものであり、大変貴重である。
お茶碗をかぶっているようでひょうきんですね。
051 軍船模型
楼船とは望楼を備えた大型の船と思われる。
この模型は、後の時代の書物をもとに製作したものであるが、当時の楼船を考える上で参考になる。
3-2 定軍山の戦い
中原(黄河流域の平原地帯)を支配下におさめた魏王曹操は漢中まで進出。
劉備が手にしたばかりの益州(現在の四川省ほか)に北から攻め入る構えを見せた。
逆に劉備が漢中を奪えば、中原へ打って出る絶好の拠点となった。
219年、両軍が遂に激突。劉備軍の老将・黄忠は漢中の要害、定軍山で曹操の右腕である夏侯淵を斬った。
不利となった曹操は漢中から撤退し、劉備は漢中王となった。
これ以降、魏・蜀・呉による天下三分の形成が本格的に定まった。
定軍山の撒菱
052 撒菱
使い方次第で戦術的な効果が変わってくるので、将の知力が問われた。
魏の夏侯淵と蜀の老将・黄忠が激突した定軍山で大量に出土した。
本品は定軍山で大量に出土。
日本でも良く忍者が使ってるイメージですよね。この場合は逃げるときに、追っ手に追いつかないよう利用するイメージです。
本作の使い方は、現代なら地雷ですね。
053 「袞雪(こんせつ)」拓本
部下が曹操に。なぜサンズイが無いかと尋ねると。曹操は傍らの褒河を指し、「これは水ではないのか」と答えたという。
曹操が渓谷に聳える(そびえる)絶壁にある石門から、雪のような水しぶきを巻き上げる褒河(ほうが)渓谷を眺めてその景観に感じ入り「袞雪」の二文字を揮毫(きごう)した。
本来、水がさかんに流れる意味の「滾(こん)」と書かねばならないのですが、曹操はあえてサンズイを欠いた「袞」を書きました。
部下に理由を聞かれた曹操は褒河を差し「これは水ではないのか」と答えたと言います。
褒河と曹操作品のコラボですね。
展示物ではありませんが、下は袞雪の原石です。漢中市博物館に展示してあるそうです。
褒河渓谷です。川に沿って復元された桟道も見えます。
3-3 樊城(はんじょう)の戦い
劉備は219年に漢中盆地を占領すると、漢中王を自称し、漢王朝復興の大義を鮮明にした。
荊州(湖北省)に留まっていた関羽は。曹操軍の拠点である樊城に猛攻を加え、献帝が住む許をうかがう形成を作り出した。
劉備の台頭を恐れた曹操と孫権はひそかに協力して関羽軍を攻撃した。
関羽は、孫権配下の朱然の軍に背後を襲われて斬られ、その首は曹操のもとに届けられた。
憤った劉備は221年に成都(現在の四川省成都市)で皇帝に即位したのち、大軍を率いて孫権を攻めたが大敗を喫し、成都に戻ることなく223年に病没した。
054 「偏将軍印章」金印
関羽は曹操の陣営に降ったとき偏将軍に任ぜられた。
その折り、受け取ったであろう印章については記録がないが、本作が参考になる。
055 童子図盤
外面底部の銘文から蜀郡製であることが分かる。
呉の朱然の墓から出土。蜀の名将・関羽を捕らえた人物である。
どのような経緯で本作品を入手したかは不明である。
056 熨斗(うっと)、炭炉(たんろ)
いずれも青銅製で現代のアイロンのように使用する。
樊城の戦いで関羽を捕らえ、呉を支えた名将・朱然の身なりを整えたものか。
加熱して皺を伸ばす道具である熨斗と、炭をくべる炭炉。
いずれも青銅製で、セットで現代のアイロンのように使用する。
樊城の戦いで関羽を捕らえ、呉を支えた名将・朱然の身なりを整えたものか。
こちらが熨斗
炭炉
057 釵(さい)
黒髪に金色が映える様は優美であったと想像される。
呉の重臣である朱然の息子の世代の墓から出土した。
3-4 諸葛亮の南征
劉備の死の2年後(225年)、諸葛亮は魏を攻める国力を養うため、蜀の政権に従っていなかった四川省南部から雲南省にかけての地域に遠征を行った。
この地域は地下資源が豊富で、諸葛亮は銅をはじめとする軍事物資の確保を狙ったものと考えられる。
「三国志演義」には諸葛亮が「蛮王(野蛮人の王)」と戦った話が載せられているが、この地域は後漢時代にはすでに漢人が入植しており、諸葛亮の南征は漢人豪族を支配下に入れることが主目的であったと考えられる。
ピンボケごめんなさい
諸葛亮の南征と銅資源
058 武士出征像
冠や笠の形から史書に「西南夷」と記された人々を表わした可能性がある。
蜀の南で反乱を起こし諸葛亮に鎮圧、慰撫された。
059 「孟とう」印
小型印を大型印に納めるのは当時中国で流行した形式の一つ。
060 鐎
蜀南部で土豪たちが叛乱した背後に交州からの離反工作があったが、蜀南部出土の本作は両地域の密接な関係を示す。
061 提梁壺(ていりょうこ)
中国内地から蜀南部に移住して土着化した豪族たちの経済力がうかがえる。
062 甗(げん)
釜の中に入れた水を加熱して、甑の底に開けた小孔を通して上がってくる湯気で中の食材を蒸した。調理時は木蓋を被せた。
同じ墓から出土した多くの銅器は銅資源の豊かさを想起させる。
063 博山灯座(はくさんとうざ)
仙人の頭から柱が垂直に伸び、途中で2羽の鳥が止まる。
上端には本展では展示していないが火皿が載り、油と植物の芯で灯りをともした。
3-5 石亭の戦い
曹操は、甥の曹休を「我が家の千里の駒」と称して武勇を称え、我が子同然の愛情で接し、その名は呉にも響きわたった。
呉は曹休を討伐しようと、呉の太守・周魴が魏に降伏すると見せかけ曹休をおびき寄せ、石亭の地で向かえ討つことを画策。
曹休は策にかかり、敵地深くに入り込み陸遜軍の攻撃を受けた。
このときは救援があり九死に一生を得たが、ほどなく体調を崩しこの世を去った。
2009年、曹休の墓が見つかった。出土した帯鉤は、呉の地でも類品が見つかっている。
曹休がどのようにしてこの帯鉤を入手したのか。
今となっては、ただ想像を巡らせるばかりである。
魏の揚州都督であった曹休は、魏の軍事面の重鎮の一人であった。
曹休討伐のため、呉は鄱陽郡の太守であった周魴を用いて、魏への偽投降をし曹休を呉の領内に誘い込み殲滅させる作戦を立てる。
策にかかった曹休は司馬懿、賈逵を別働隊とする10万人で呉の石亭に進軍する。
呉の孫権より大都督に任命された陸遜は全琮や朱桓を率いて石亭付近で蜀軍を待ち受け壊滅状態に追い込むこと成功、蜀は1万人を越える死者、捕虜を出し撤退した。
魏の曹休
065 「曹休」印
墓の年代と規模からみて、曹操の親戚で魏の将軍として活躍した曹休の印であること疑いない。
「三国志」の登場人物の確かな印章はこれだけである。
曹休の印!、これはすごい。
066 帯鉤(たいこう)
呉の墓でも類例があるなど各地で流行した意匠だ。
本作は曹操の甥である曹休を葬った墓から出土。
曹休は呉との戦いの果てに病で没した。
3-6 合肥新城の戦い
魏はこの地を守るため、230年に合肥の近くに「合肥新城」と呼ばれた砦を築いた。
呉はこの城を何度も攻めたが、結局落とすことは出来なかった。
最大の戦いが行われたのは253年で、呉の実力者であった諸葛恪(諸葛亮の兄の子)が大軍を率いて新城を4ヶ月包囲して攻撃したが、毌丘倹率いる場内の魏軍はよく持ちこたえ、魏の援軍が到着したため呉軍は撤退した。
合肥の戦いは曹操領の南方の要衝・合肥を巡って魏と呉の間で行われた戦い。三国時代時代を通じで決着がつくことは無かった。
孫権が劉備に荊州の一部を変換する代わりに、曹操を攻めるという依頼から始まった。
230年代初頭、孫権は毎年のように合肥進行を企てていた。古くからある合肥城は湖の近くにあり呉の水軍の機動力の有利さが発揮されやすいことから、魏の満寵は合肥新城を構築する。
253年、第5次戦役が勃発、呉の諸葛恪は魏に侵攻して合肥新城を包囲した。
城を守る毌丘倹(ぶちゅうけん)は四ヶ月にもわたる包囲に耐え、魏の太尉の司馬孚の援軍もあり呉は撤退する。
難攻不落の合肥新城
068 石球
水上戦に長けた呉軍を平野に誘い込む作戦である。
その合肥新城で準備された兵器が石球。城壁の上から落としたか、投石機で呉軍めがけて飛ばしたと見える。
069 撞車頭(どうしゃとう)
野戦で呉軍を蹴散らすため戦馬車の車軸の端に取り付けられたと推測されている。
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